2025/04/25
福岡市博多区のマンションに住むミチコは、奈良県出身の32歳。関西弁がベースの彼女の言葉は、福岡に移り住んで5年経った今でも「奈良と福岡のごちゃまぜ弁」と友人たちから言われていた。
「はぁ~、今日も蒸し暑いわ~」
ミチコは汗をぬぐいながら、昨日届いたばかりの空気清浄機「ばってんイオン」の箱を開けた。地元の友人・アキラからのプレゼントだ。
「博多の夏はこれからが本番やけん、これでしのいでくれんね」
そう言って渡されたこの機械、普通の空気清浄機に見えたが、説明書によると「九州方言モード」なるものが付いているらしい。
「なんやこれ…よか・ばってん・ばり好いとーって…」
説明書を読みながら首をかしげるミチコ。標準語の⟨弱⟩・⟨標準⟩・⟨強⟩の代わりに⟨よか⟩・⟨ばってん⟩・⟨ばり好いとー⟩という三段階の設定があるという。
「とりあえず『ばってん』で試してみるか」
ボタンを押すと、空気清浄機は「ばってんモードでごわす~」とかわいい声で応答した。
「あらかわいい♪ なんか癒される~」
その日から、ミチコの生活は変わった。朝起きると「おはようございますばい!今日も良か一日でごわすよ~」と元気な挨拶。夜寝る前には「おやすみなさいたい。明日も頑張りましょうね~」と優しく語りかけてくれる。
しかし、使い始めて一週間が経ったころ、ミチコは不思議な現象に気づいた。
「なんで急に湿度上がるんやろ…」
空気清浄機が「〜イオン」と語尾につけて喋るたびに、部屋の湿度が急上昇するのだ。
「今日はちょっと暑かですねイオン♪」
「あぁ!また湿度上がった!」
説明書をもう一度読み返してみると、小さな注意書きがあった。
『「イオン」発声時に微量の水分を放出する特殊機能付き。リアルな九州の湿度を再現します』
「なんでやねん!そんな機能いらんわ!」
ミチコは思わず関西弁と博多弁が混じった独特の叫び声を上げた。
翌日、友人のアキラが様子を見に来た。
「どがん?便利やろ?」
「なにが便利なんよ!湿度上がりまくりで髪の毛がボッサボサになるんよ!」
ミチコの文句を聞いたアキラは大笑いした。
「そりゃ『ばり好いとー』モードじゃけん。『よか』モードにしとけば湿度も控えめになるたい」
半信半疑でミチコが設定を「よか」に変えると、確かに湿度の上昇は控えめになった。
「これでよかったぁ~」
ミチコはほっと胸をなでおろした。
それからというもの、ミチコは「ばってんイオン」との暮らしを楽しむようになった。天気予報を聞くときは「よか」モード、部屋の掃除をするときは「ばってん」モード、友達が来るときは「ばり好いとー」モードと使い分けるようになった。
そして、いつの間にか彼女自身も「~ばい」「~たい」「~と?」といった博多弁を使うようになっていた。
ある日、奈良から母親が遊びに来た。
「みっちゃん、あんた喋り方変わったね?」
「そうかな?気づかんかったばい。あ…」
ミチコは自分の口から出た「ばい」に気づいて慌てた。母親は怪訝な顔をして部屋を見回し、角に置かれた空気清浄機に目を止めた。
「これなに?」
「あ、それね。空気清浄機イオン♪」
言った瞬間、部屋の湿度が急上昇。窓が曇り始めた。
「なんでや!『よか』モードなのに!?」
慌ててミチコが説明書を確認すると、さらに小さな文字で注意書きがあった。
『本体の所有者が「イオン」と発声した場合も同様の効果があります。九州の言葉は心まで湿らせます』
「なんでそんなん書いとくんや~!」
ミチコの叫びに、母親は「ふふふ」と笑いながら言った。
「帰ったら父さんにも話しておくね。うちの娘が博多弁話すようになったイオン♪って」
「お母さんまで!もうええって!」
その日以来、ミチコの部屋は常に湿度が高めだという。彼女が「イオン」と言うたびに湿度が上がるからだ。でも不思議なことに、最近ではその湿度がむしろ心地よく感じられるようになってきた。
そんな彼女の口癖は今では「ばってんね~、福岡の空気もよかもんよ、ばり好いとーイオン♪」だという。
奈良と博多、二つの言葉と文化が混ざり合ったミチコの新しい生活は、少し湿度高めだけど、とても居心地の良いものになっていた。
(おわり)